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安定性や高収入かで選ぶよりも自分のやりたい仕事か(結果長く続けられる仕事)で選ぶ

収入とやりがい、あなたならどちらを重視して転職先を選びますか?

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人が仕事を選ぶとき、いつの時代も悩まされるのが、安定を求めるか、やりがいを求めるか、です。両立できればいうことはないのですが、両者はぶつかり合うことも少なくありません。どちらを選んでも正解・不正解はその人の感じ方によってかわります。
今回はそんな究極の選択とも言える「収入かやりがいか」について考えていきたいと思います。

まだまだ不況が続く中、安定した収入を求める声が多い

現在の転職傾向を見てみると安定志向が強まっているようです。やっぱり景気が安定しない、就職先もそれほど多くないという環境だと将来にわたってとりあえず生活費は確保できそうな安定したところ、と考える人は多くなっています。

転職は、実際にやってみると実感すると思いますがかなりのエネルギーを必要とします。転職活動をしたからと言って、確実に次の働き口が見つかるという保証もありません。気力・体力を消耗し、難関をクリアした後たどり着く転職先にはずっと自分の面倒を見てくれる所という意識が働くのも無理はありません。

ただしここで重要なのは、「安定したいから」という転職理由では企業はあなたのことを評価してくれません。決して景気がいいとは言えない状況で、企業は全体的に採用に慎重になっています。このような状況で、ただ単に安定を求めて転職希望を出されてもなかなか採用する気にはなりませんよね。

会社は企業へどのような貢献をしてくれるか、組織にプラスの刺激を与えてくれるかという所を見ています。面接試験に臨むにあたって、その企業で何がしたいのか、どのような面で自分は貢献できるのかということをしっかりと考えましょう。

高収入を求めて転職をする場合、転職エージェントのキャリアアドバイザーに「そのスキルやキャリアでは希望年収の求人はない」といわれることが多くあります。
高収入を希望するのはいいけれども、自分にそれに見合った能力があるかを一度冷静に考えてみましょう。収入の条件が高くなれば、会社のあなたに求めるハードルもどんどん高くなる事も忘れずに。

長く続けるからこそ収入だけではなくやりがいも必要

給料のことはもちろん大事ですが、会社に入って自分が何をやりたいのか、自分がどうなりたいのかを決めておくことも重要です。安定や高収入を選ぶ前に、転職してどうなりたいのかをしっかりと考えてみましょう。収入の面で転職を考えている人の中には、独身で将来結婚して家庭を持った時のことをイメージしている人も多いのではないでしょうか?少し前のものですが転職エージェントの収入についてのアンケートが、興味深いデータだったので紹介します。

転職はお金だけではないが安定性と高収入ならどっちを選ぶ?

「有名企業に就職して安定しているけれども年収が300万円程度」
「ベンチャー企業で不安定だけれども年収1000万円を超えることもある」

どちらが結婚相手としていいですか?

結果はベンチャー企業で不安定だけれども年収1000万円以上を選んだ人が63.7%。
有名企業でも年収300万円というのが少しネックになったかもしれませんが、1000万円の生活に賭けてみたいと思う女性が多いということですね

自分で仕事をしている人も多ので、相手がダメになった時には自分が働けばいいという考え方も影響しているのではないでしょうか。しかしその他のアンケートを見ると、結婚相手に求めるのは年収よりも性格や愛情の深さっていう女性はかなり多いという結果も。結婚のことも考えて、安定した収入か高収入かで迷っているのであれば、そこはあまり重視しない方がいいのかもしれません。

転職活動ってホント大変!できれば一つの会社で勤めあげたいと思う人は多いと思うよ。なかなか難しいご時世になっちゃったけど、カモのおすすめはやりがいがあって長く続けられる仕事だね。転職はある程度年齢が高くなるとハードルも上がってくるので、お金だけではなく長く働くことができる会社を早く見つけてたいカモ

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5つの理解で、誰でも仕事の安定とやりがいを手に出来る!

  1. 仕事の安定は結果論
  2. 仕事へのやりがいは自分が「創る」もの
  3. やりがいのある仕事の方が出世や収入のチャンスにも恵まれる
  4. 副業(?)にやりがいを求めても構わない
  5. 安定のない時代に仕事の安定を手に入れる方法

仕事の安定は結果論/炭鉱はかつて花形産業だった

仕事に安定を求めるべきか、安定はなくともやりがいを求めるべきか、結論を突き詰めれば、このことに正解はありません。主な理由は、前者の「安定」の方にあります。仕事の安定は、求めても無駄になることが多いからです。

なぜならば、仕事・職業というものは、つねに時代の変化の波に洗われています。仕事に安定を求めた人に希望どおり安定がもたらされるかは、とどのつまり、結果を見なければわかりません。

たとえば、戦後間もなくの頃、北海道ではまだ石炭産業は花形産業でした。嫁ぎ先として、採炭作業員(炭鉱夫)も含め、炭鉱会社に勤める男性はとても人気がありました。安定、高収入、手厚い福利厚生、すべてが整っていたのが、当時の石炭産業だったのです。

同じ頃、愛知県などでは、自動車産業がいわばベンチャー産業として、よちよち歩きを始めていました。まだ海のものとも山のものともつかない、前途不明瞭な状態でした。

ところがその後、ほんの四半世紀くらいを経て、両者の立場は劇的に逆転しました。今では、自動車産業は日本経済を背負って立つほどの存在になり、広大な裾野産業も含め、一産業への国の依存度の高まりが逆に心配されるくらいです。

一方で、炭鉱はどうでしょうか。こちらは、産業自体が日本からはほぼ消えて無くなっています。一部で生産が行なわれていますので、無くなったという表現には語弊がありますが、事実上そのような様子です。ちなみに、戦後の日本の石炭生産のピークは、1951年、4650万トンを記録した頃でした。

すると、1950年代の初めに北海道の炭鉱会社を選んで就職した人と、愛知の自動車産業に飛び込んでみた人、その後の収入の安定や職業人としての立場の安定を手にした人の数は、どちらに多かったといえるでしょうか。答えは、いうまでもないでしょう。

ちなみに、上記の北海道ですが、超安定・高収入・高ステイタスということで、地元では長年憧れの就職先だった、国内に冠たる都市銀行のひとつ、北海道拓殖銀行も危うい状況が明るみに見え出してからほんの数年であっという間に破綻しています。1998年、創業98年目のことです。このとき北海道民570万人(当時)は、誰もが心底、唖然としたそうです。

仕事へのやりがいは自分が「創る」もの

やりがいという言葉には、個人個人でその捉え方に多少の違いがあります。ここでは、仕事へのやりがいについて、いくつかの定義を行いつつ、話を進めていくことにしたいと思います。

まず、いきなり極論となりますが、「やりがいのある仕事はないか?」と、探すことは間違いです。さらには、誰かに与えられた仕事の中に、「やりがいが転がってはいないか」と探すことも間違いです。

なぜなら、(当記事においての定義です)仕事へのやりがいは、他者がどこかに用意しておいてくれるものではないからです。仕事へのやりがいは、自らが創るものだからです。もう少し掘り下げましょう。

仕事へのやりがいと、仕事での満足は違います(と、定義します)。満足は仕事の結果に基づくものですが、やりがいはそうではありません。仕事へのやりがいは、やりがいのある仕事をするかぎり、結果を問わず手に出来るものだからです。やりがいとは、すなわち仕事の過程においての充足感を意味するものです。いわば、時間の価値化です。ロマンチックにいえば、「働いているその瞬間、瞬間が輝いている」と、いうことになるでしょう。

一方、仕事での満足は、仕事をした結果においての充足を意味します。例えるならば、満腹感と同様です。不味(まず)いものをたらふく食べても、それでも満腹感だけは得られるということです。

つまり、やりがいとは、食べることにたとえれば、美味しいものを食べながら、「美味しい!」と、幸せを感じている瞬間そのものです。

「美味しい!」だけでなく、あとで満腹感も味わえれば言うことはないのですが、必ずしもそうでないのが悩ましいところです。ある人にとっての皿の上の極上のキャビアは、いつもたったの数十粒しか盛り付けられていないのかもしれません。以上のように考えると、仕事とやりがいについての分析がしやすくなります。

やりがいのある仕事は、美味しい料理

やりがいのない仕事は、不味い食べ物

仕事で得られる収入とは、ここでの料理や食べ物の量を意味します。そのため、繰り返しますが、不味い物をたらふく食べても(やりがいのない仕事をたくさんしても)、満腹感(収入)は得られます。

一方、やりがいは、こちらも繰り返しますが、過程の中に存在します。なので当然のこと、多くの人が、美味しい料理を食べつつ(やりがいのある仕事をしつつ)、満腹感も味わいたい(多くの収入も手にしたい)と思っているのですが、なかなか世の中そうはいきません。

実際には、

「不味いけれども我慢して食べて、満腹感だけは味わっている」
=「仕事にやりがいは感じないけれど、収入はとりあえず確保している」

「不味いし、満腹もしていない」
 =「仕事にやりがいは感じないし、収入も希望に足りない」

どちらかの仕事人生を選ぶことを余儀なくされている人が多いことは、もちろん、いうまでもありません。

また、「憧れだったメディアの制作会社で働いていますが、給料が少なくてまともに食べて行けません」と、嘆くクリエイターなどがいるように、大好きで、なおかつやりがいのある仕事に就きながらも、「皿の上のわずかなキャビア」では、満腹できないどころか、栄養失調の心配さえ感じざるをえないほどに困りきっている人も少なくないことでしょう。

なお、ここでの栄養失調とは、当然のこと人生の栄養失調のことを言っています。貯金できない、結婚もできないといった、大変厳しく、寂しい状況(評価は価値観にもよりますが)を指すわけです。

やりがいを創り出す言葉

さて、そこで話を冒頭へ戻します。「やりがいのある仕事はないかと、探すことは間違いだ」と、いうことと、「仕事へのやりがいは、自分で創るものだ」という部分です。多分、もうお分かりではないかと思います。

仕事において、満腹・満足ができる方法は、簡単に探し出せるのです。給料の高い会社や仕事がそうです。情報もデータもどこにでもあります。飲食店と違って、それらの会社や仕事の多くは「敷居が高く」、「のれんをくぐりにくい」のですが、それがどこに存在するかまでは、誰もが容易に知ることが可能です。あとは、学歴であったり、仕事によっては体力であったり、何かの資格であったり、敷居を跨ぐための条件を自らが整えていくだけです。

しかしながら、一方のやりがいは、探してもなかなか見つかりません。美味しい料理店探しをする場合は他人のクチコミも参考にできますが、それは人間誰もが、結局のところは似たような味覚を持っているからです。

対して、仕事へのやりがいというものは、味覚よりもはるかに属人的で多様です。しかも、個人にあっての価値観は、意外なほどにうつろいやすく曖昧です。なので、仕事へのやりがいを「どこかに存在するはずのもの」と考え、探そうとする限りは、一生をかけて探し回っても結局見つからないということが、おそらくは少なくないはずです。

ですがそれでも、やりがいを感じて仕事をしている人は世の中にたくさんいます。彼らはなぜ、それを可能としているのでしょうか。

ヒントとなるのがこの言葉です。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」

株式会社リクルート(現在は株式会社リクルートホールディングスを中心とする企業グループ)の創業者である故・江副浩正氏の言葉です。

リクルートといえば、地方の年配の方などは、「あ、リクルート事件の…」と、かつての一大政界スキャンダルを思い起こしたりもしますが(1988年)、それ以上に現在のリクルートは、情報産業分野での日本を代表するリーディングカンパニーのひとつとして知られています。

また特筆すべきは、この会社においては、グループ全体が、日本の産業界における巨大な人材供給機関となっていることでしょう。

リクルート出身の人材は、日本の津々浦々、あらゆる場所でさまざまな仕事に就き、活躍しています。起業している人も大変多く、また、地域の活性化や人材の育成、文化の発信など、いわゆる社会貢献を行っているリーダーの中にも、リクルート出身者は数えきれないほど大勢います。

リクルートは、日本の企業の中で、仕事にやりがいを感じて働いている人の割合がおそらくはもっとも高い会社のひとつでしょう。そのやりがいの理由が、さきほどの言葉の中にあります。リクルートの社員の多くは、この言葉にあるように、つねに自ら「機会を創る」のです。

仕事をやらされるのではなく、彼らは進んでそれを創造するのです。小さな課題も、大きな目標も、他人につくってもらうのではなく自分がつくり、自らそれに挑戦するのです。

評価は他者やマーケットにゆだねつつも、裁量は自らが握り、同時に責任も引き受けます。そうした緊張感あふれるエキサイティングな環境のもと、彼らは生き生きと、その行動を積み重ねます。

「裁量」と「責任」

ここで、いま触れたばかりの2つの言葉にぜひ注目してください。実は、この両方を個人が任せられている場合ほどに、個人が仕事に対し、やりがいを感じられることはないのです。さらに、この場合においてのやりがいは、仕事の内容が派手で目立つこと、あるいは地味で目立たないことに左右されません。

野菜嫌いの子どもでも、自分が種を植えて育てた野菜であれば美味しいと言って食べるように、自らの裁量と自らの責任で動かし、支える仕事であれば、それは誰もが、嫌でもやりがいを感じないではいられないものであるからです。すなわち、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉は、職業人のための成長への指針であるだけに留まりません。

実はこの言葉は、裁量と責任を担うことによって仕事の中にやりがいを創り出し、仕事を面白くするための、とてもお手軽な(そう言ってしまっても不謹慎ではないでしょう)方法をアドバイスしてくれてもいるものです。

なお、くどくなりますが、付け加えておきましょう。仕事における裁量と責任は、セットであることが肝心です。なぜならば、裁量とは、自由の行使を意味するにほかならないことだからです。一方、責任とは、束縛を意味します。自由というアクセルが踏み込まれ過ぎて身勝手な暴走にならないよう、コントロールするためのブレーキ=束縛が、そこにはともに存在しなければならないのです。裁量と責任を両方とも手にし、どちらも自らコントロールできるとき、人は仕事に面白さと楽しさを感じます。

その逆の、悪い例を挙げましょう。裁量のみあって責任を持たない上司、責任のみ負って裁量を許されない部下、この組み合わせの中で非人間的な不幸が繰り返し生産される極端な現場、それこそが、いわゆるブラック企業です。

仕事の「安定」と「やりがい」。正体がだんだん見えてきたみたいだね。

そうですね。ほかにも分析や意見はもちろんあるでしょうが、私は仕事によって得られる人間のベネフィット=恩恵については、結果においてのもの、過程においてのもの、それぞれを明確に分けて考えた方がよいと思っています。そのことは、たとえばこれから増え続けていくであろう、養う家族を持たないままに働く人の仕事人生や、老後の孤独の中を働き続ける人の人生を考えるなどするうえでも、大切なことだと思います。

「子どもの寝顔を見れば、嫌な仕事でも頑張れる」というモチベーション…

そうです。それを持たない場合の人生、無くしたあとにおいての私たちの長い人生をどう考えるか?ということです。

やりがいのある仕事の方が出世や収入のチャンスにも恵まれる

この記事は、このような書き出しからスタートしています。

「人が仕事を選ぶとき、いつの時代も悩まされるのが、安定を求めるか、やりがいを求めるか、です」

「両立できればいうことはないのですが、両者はぶつかり合うことが少なくありません」

このことは、たしかによく見られる事実です。そして過去にも、多く有り得た事実です。たとえば、「安定した雇用と収入のために、やりがいは感じられるものの不安定な仕事を辞め、黙々とやりがいの持てない仕事を続けてきた」「子どもが生まれ、夢はあきらめ、サラリーマンになった」それはまさに私の父親の人生だ。母親の人生だ。という人が、世の中には数え切れないほどたくさんいることでしょう。

そして、その決断のおかげで、「私は大学まで行かせてもらえた」「親はマイホームを持てた。いまは十分な年金で暮らしている」そんな人も、世の中には大勢いるにちがいありません。ただ、ここで大事な指摘をしておきましょう。

実は多くの人が、このことについては、ある勘違いをしている可能性が高いのです。その可能性は、こんな疑問への答えを探し直してみることで、私たちの目の前に大きく浮かび上がってきます。

「親たちや、あるいは過去までの私たちが、ときに仕事へのやりがいを捨てて求めた安定、それは本当の意味での安定だったのか?」

いかがですか。それは安定だったのでしょうか?ではないでしょう。それはあたかも「安定」であるように見えていた、右肩上がり一直線の「成長」だったというのが、おそらくは正しい答えです。この仮説を成り立たせるのは簡単です。たとえば日本のGDPの推移や、その伸び率の推移を見ればよいのです。加えて、日本人の平均収入におけるそれらを見れば、自ずと答えは出てきます。

戦後の日本の経済成長というものは、すさまじいのひと言に集約してよいくらいのものでした。たとえば1956年度から1973年度までの平均実質経済成長率は、なんと9%を超えていました。つまり激動です。少しも安定などしていません。

さらに、潮目となった第1次オイルショック(73年)を経て、74年度からいわゆるバブルの終り頃の90年度までの平均ですが、それでも4%を超えています。こちらもかなりの数値です(参考:同上)。ちなみに、この期間の冒頭には、「狂乱物価」と呼ばれる異常事態も発生しています。

こうした経緯にあって、GDPは、内閣府の長期経済統計を見ると、9兆3867億円から(1956暦年)、437兆229億円(1990暦年)へと、文字どおり桁違いの増加です。約46倍です。加えて個人の収入ですが、よく指標になる平均的な大卒初任給を拾うと、やはりこの間、おそらく13倍程度には増えていることでしょう。(以上の数字は、統計等によってさまざまに違ってはきます)

それでも以上の激動の間、日本には、いわゆる安定した仕事人生が、いまよりもずっと当たり前に見られていました。

「年功序列」
「終身雇用」
「働く夫と専業主婦」

そんな人生の標準モデルが、すべての国民にまでとはいえないまでも、多くの人々にあてはまった時代でもあったのです。こうした標準モデルであり、安定した仕事人生というのは、繰り返しますが、本当に「安定」という名でくくるべきものだったのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。

これらの時代において、多くの仕事人生は、実は、安定していたのではありません。正しくは成長していたのです。(ただし途中で成長の止まった産業もありました。たとえば冒頭の石炭産業です)しかも、急成長です。急成長であったがため、そうした仕事人生を歩んでいた多くの人びとにあっては、働き続けるほどに給料も増えたのです。当たり前に結婚も出来、マイホームも建てられ、子どもを大学へも行かせられたのです。

60年代、70年代、80年代、「フラフラしていないで、安定した職に就け」と、親に叱られていた若者は、実は安定を目指すことを求められていたのではなく、「成長のバスに乗り遅れるな」と、親から叱咤されていたのです。

そしてこの人たちが、夢ややりがいを捨て、嫌々ながらも安定(本当は成長)のバスに乗り、その結果がマイホームや幸せな家庭といったかたちで自らに示された場合、彼らはその子どもたちに、「フラフラしていないで、安定した職に就け」とは言いません。物分りのよい彼らは、おそらくはこう言っているはずです。

「人が仕事を選ぶとき、いつの時代も悩まされるのが、安定を求めるか、やりがいを求めるかだ。両立できればいうことはないが、両者はぶつかり合うことが少なくない。だから君たちは慎重な選択を云々~」

ところが…。ここからが本題です。これからの世の中を考えるとき、このアドバイスにおいては、その一部に、間違いがある可能性が少なくはないのです。どこが間違っているのか。

まず、ここで語られている安定とは、本当は成長のことを言っています。ところが、過去に安定という名のもと語られてきた仕事人生における成長や、それを下支えしていた国を挙げての経済成長、皆で乗合バスに乗って坂道を登っていくような安楽な成長は、ご存知のとおり、もう日本には存在しないのです。

逆に、現在において、企業や個人が成長を掴もうと思えば、とても気楽な道は選べません。リスクを背負い、ひとり荒海に漕ぎ出すような危険を冒さなければ、とても容易には手にし得ないものとなっています。すると、少なくともこれは安定とはいえません。むしろ正反対の行為である「冒険」でしょう。

すなわち、「安定を求めるか、やりがいを求めるか」という選択肢は、あえて直訳すると、「冒険(による成長)を求めるか、やりがいを求めるか」という、そう問われたところで、「方向性同じでしょ?」と、何やらチンプンカンプンな、誤植でもあったかのような投げかけを意味するものと、いまはなっているわけです。

「好きなことを仕事にする」は人生の安全管理?

そんな現状のもと、いま少なくない数の人が、「好きなことを仕事にしよう」と主張しています。本の表紙やインターネットにも、その言葉はあふれています。主な論拠は2つあります。

ひとつは、その方がやりがいを得られやすいからです。説明は不要でしょう。このことは誰もが理解可能です。

またこの記事では、前段のとおり、仕事でのやりがいについて、結果ではなく過程で得られるものと定義付けしてきましたが、そのことともこの考え方は合致します。なぜなら、好きなことを仕事にした場合、その結果がたとえ失敗に終わったとしても、過程での充足感=やりがいは必ず味わえることになるからです。(もっとも、仕事はお金を稼ぐためのもの。収入という結果において満足出来ない仕事に価値はないと考える人にとっては、以上は青臭い子どもの論理です)

もうひとつは、「好きなことを仕事にする方が、成功しやすいから」というものです。このことは「好きこそ物の上手なれ」という、誰もが知る古くからの言葉に集約されます。好きな仕事であるからこそ、より集中が出来、スキルが高まり、競争力が増すということです。まさに事実でしょう。

ただし、以上については反論も多く聞かれます。「好きなことを仕事にする方が成功しやすいというのは、勝者の論理だ」と、いうものです。

「好きなことばかりを追い求めて、時間を費やし、それが成功に結びつかなかったときの悲惨な結果を考えてみろ」と、いうわけです。

そこで見渡してみると、なるほどたしかに、上記を主張している人のほとんどが、好きなこと、すなわちやりがいのあることを仕事にして、一応の成功をおさめている人ばかりです。

一方で、みじめな敗者の書いた「好きなことを仕事にしたいだなんて、無謀なことはやめておけ」と、いった内容の警告本が、書店の店頭に並ぶことはあまりありません。

では、やはり、好きなことを仕事にしようとすることは、まともな人間が選択せざるべき、危険な冒険なのでしょうか。その答えについて、この記事では、「そうではない」という見解を示しておきたいと思います。なぜならば、その理由は、ついさきほど記した一文にあります。

「好きなことばかりを追い求めて~それが成功に結びつかなかったときの悲惨な結果を考えてみろ」

このセリフは、戦後日本の一般家庭の中で、連綿として言い継がれてきたものでしょう。少し前にこの文章の中に出てきた、「60年代、70年代、80年代、フラフラしていないで、安定した職に就けと、親に叱られていた若者」が、それこそ毎日のように聞かされていたセリフです。

そうした若者たちが、なぜ親などからそんな説教をされていたのかといえば、それについても理由はさきほど示しました。

「成長のバスに乗り遅れる」からです。

世の中全体が、年功序列の乗合バスを右肩上がりの成長に向けて次々と出発させている時代にあっては、それに乗り遅れることは、いわゆる人並みの人生を送れなくなる、という大変な危険をも意味したのです。しかも多くの場合、それを挽回するチャンスはやって来ません。

間違った見方をしている人も多いのですが、当時は、現在よりもはるかに、人生においては再チャレンジがしにくく、多くの人々の一生は、単純で硬直化された一本道の人生すごろくそのものだったのです(転職市場というものの当時における規模を考えるだけで、そのことはすぐに理解が出来ます)。

しかしながら、いまはちがいます。そもそも、乗り遅れてはいけない「成長のバス」自体が、いまは走っていないのです。「まだ走っている」と、思っている人も中にはいますが、実際には走っていません。走っていないからこそ、2000年代以降は、景気の拡大はあっても、昔のように皆が揃ってそれに乗っかり、豊かになるという現象は、決して起こりえてはいないのです。

そのため、リーマン・ショック直前のいわゆるミニバブル、同ショック後の景気回復と、2000年以降の景気の拡大にともなって広がった経済のパイは、他人の運転するバスなどはなから探そうとせず、自分の足で前へ進んだ人だけが、その美味しい切れ端を手に出来るものとなっています。

すなわち、現在は、「好きなことばかりを追い求めてそれが成功に結びつかなかったときの悲惨な結果」こそ、過去同様に存在するものの、そうしなかった場合の恩恵の方も、消えてなくなっているのです。

「やりがい」
「自由」
「チャレンジ」
「可能性」

と、いったものを捨て、窮屈な成長のバスに乗り込んだところで、バスのエンジンはもう壊れてしまっているため、いつまでたっても発車してくれません。すなわち、仕事人生においての諦めや我慢と、満足・恩恵とのトレードオフは、いまはすでに成立しないということです。

そればかりか、ギュウギュウ詰めの動かないバスの中で、ついには死亡者が出たり(過労死)、暴走運転手がやってきて無理にバスを走らせようとして事故を起こしたり(ブラック企業)、辛うじて動いているバスであっても、ナビゲーションシステムが古いため運転手が道に迷い、客が途中で降ろされたり(大手電機メーカーの破綻)、そんなこともご存知のとおり頻繁です。

そこで、「そんなんだったら、自分の好きな道をとりあえず歩いておいた方がかえって安全なんじゃないの?」と、提案しているのが、好きなことを仕事にしようと言っている人たちなのです。

彼らは、ほとんどが成功者であるため、「そうした方が成功しやすい」と、つい経験論も述べ、誤解されることも多いのですが、本質的な意見はそうではないはずです。どのみち世の中にまともな成長のバスなど走っていない以上、相対的に見て、自らの足で踏み出し、歩いてみることの方が、いまはよほどリスクが少ないのではないかと、彼らはわれわれに問いかけてくれています。

危険な冒険を煽っているのではなく、人生の安全管理のための打ち手として、「好きなことを仕事にする」をわれわれに訴えかけてくれているというわけです。

ホリエモン(堀江貴文)さんの「好きなことだけで生きていこう」っていう意見や、本を思い出したよ。たしかにみんな、あれは成功者の意見に過ぎないって言ってるよね。「夢で若者を煽って、路頭に迷わせたりしたらどうするつもりだ!」って、怒っている人もいるカモね。でも、いまは冒険しなくたって、どのみち人生、先行き不透明だ。だったら試しに好きなことやってみたら?っていうことだね。

ホリエモンさんの意見と、当記事の見解が、どのくらい合致しているかはわかりませんが、過去に比べ現在、「やりがいのある仕事の方が出世や収入のチャンスに恵まれやすい」ということ、あるいは「好きなことを仕事にした方が成功しやすい」可能性が高まってきていることは、紹介したような、単純な計算論的概念で十分に推論可能なことではないかと思います。

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副業(?)にやりがいを求めても構わない

さて、ここで以下の言葉を三たび皆さんの前に掲げます。(さきほどはこれらを間違いを含んだものとしても扱いましたが)

「人が仕事を選ぶとき、いつの時代も悩まされるのが、安定を求めるか、やりがいを求めるか、である」

「両立できればいうことはないが、両者はぶつかり合うことが少なくない」

このことについて、個人が仕事の「ポートフォリオ」を組むことによって、こうしたジレンマは解決できるのではないか、という提案をここでは示したいと思います。近頃よく見られる事例ですが、企業勤めをしているサラリーマンが、アパート・マンション経営をしていることがよくあります。

相続で引き継いだ物件を仕方なく惰性のまま運営し、収支トントン、あるいは空室だらけで赤字…などという場合も多いのですが、それとはまったく違うケースもあります。効果的な投資を積極的に行い、物件とサービスの質を高め、経営を大成功させて、何億もの資産を築いている人も少なくありません。

なので、そうした人の場合、収入の規模で見れば、サラリーマンとしてのそれよりも、アパート・マンション経営によるものの方が、はるかに金額が大きかったりもします。

また、注ぎ込む時間はともかく、創意や工夫の方となれば、手慣れてすっかり飽きが来てしまっている昼間の会社員業務よりも、アパート・マンション経営においての方が、よほどその量が多かったりするケースも、そうした人の場合はしばしばです。(アパート・マンション経営が不労所得のための代表的手段であったのは過去のことです。いまは自主管理・他者への委託管理、いずれも問わず、オーナーの経営努力は欠かせません)

そして、そんな人は、「自分が手塩にかけ、磨いた部屋に喜んで暮らしてくれる入居者がいることが心からうれしい」などと、満面の笑顔を見せたりもします。

さて、そこで問いかけです。そんなサラリーマン氏、会社勤務とアパート・マンション経営、少なくとも現時点において、どちらにやりがいを感じているといえるでしょうか。

答えはいうまでもありません。すなわち、仕事におけるやりがいは、それが副業の中にあったとしても構わないのではないかということです。本業に見出せなければ副業にやりがいを見出す。それも、仕事人生の充実のさせ方のひとつなのかもしれません。

ただしここで、急いで言葉を修正しておきましょう。本業、副業ではなく、ここでは個人が手がける複数の仕事をまとめて、仕事の「ポートフォリオ」と呼ぶことにします。

本業、副業という上下、大小の概念をやめ、これをフラットなポートフォリオと考えることにします。そのことで、われわれの仕事人生には、おそらくは豊かで新しい地平が広がります。

結論を述べましょう。

これからはこういった働き方がおそらく増えていくでしょう。たとえば…

主に収入のための仕事

一定の収入という結果は出るが、これにやりがいは託していない

好きなことで稼げる仕事

やりがいを託している。しかし収入が不十分か、一定しないことも多い

スポットでの仕事

短時間のアルバイトやネットオークションなど、時間を有効利用するもの

投資

中には賃貸住宅のように実働的な経営を伴うものもある

ボランティア

収入は生まないが、人脈の構築などで他の仕事に寄与している

以上のようなそれぞれの仕事を個人が組み合わせて手がけるのです。組み合わせ方や、組み合わせる分野、ひとつの分野あたりにおける仕事の量、数など、個人個人によって状況はさまざまなものとなるでしょう。

すなわち、ポートフォリオです。

金銭投資におけるポートフォリオのように、たとえこれらのひとつに収入面でのダメージがあっても、他でのカバーが期待できる、リスクヘッジのかたちになっていることも理解できるかと思います。

またきわめて大事なことは、こうした仕事のポートフォリオが生み出すものとして、金銭的な収入や損失同様、メンタル面でのリスクもまた、分散が可能になるということです。

上記で言えば、1の仕事で大きな問題を抱えたとしても、2や3や4でやりがいや生きがいを感じていたり、5で成功したりしている人が、うつや自殺に追い込まれることはおそらく可能性としてゼロでしょう。もっとも、このように個人が仕事のポートフォリオを組むことには、現在は往々にして障害があります。

そのひとつが、その人が抱えている一個の仕事においての過重労働です。要は、いまは本業と称されているひとつの仕事に、やたらと時間や体力を取られ、他の仕事を試す暇さえない人が多いということです。

さらには、副業・兼業を禁止している多くの会社・職場の存在です。

毎日早朝から電車に揺られ、最終列車で帰宅。休日出勤もしばしば、という人にあっては、仕事のポートフォリオを組むのは至難といえますし、小遣い稼ぎ程度であろうと、「副業が発覚したらクビ」となる会社に勤めていては、おちおちブログを書いてのアフィリエイトも運営できるものではありません。

ただし、それでも繰り返しますが、仕事のポートフォリオを組む人はこれから増えてくるはずですし、現に増えています。

最初に挙げたようなサラリーマン大家さんだけではありません。昼間の会社員が、夜は投資家になったり、土日は文筆家になったり、同じくフォークリフトの運転手になったりするケースは、すでにたくさん存在しています。

それはなぜなのか。

答えはテクノロジーにあります。テクノロジーがこれを可能にしてくれたからです。逆に言えば、テクノロジーが切り開いてしまった世界を拒否しきれる社会は、基本として世界のどこにもありません。

そうしたわけで、仕事のポートフォリオは、これを歓迎するにしてもしないにしても、われわれの人生をかたちづくる手段のひとつとして、これから多くの人の身近に迫るものとなってくるでしょう。

そのため、いまは重視されていないどころか、それを表立って求めることはタブーともされかねませんが、転職先を選ぶポイントとして、過重な労働、長時間の拘束がないことはもとより、副業・兼業を認めているか否か、認めているとすればその基準はどのようなものかという点なども、今後はより重要なものとなってくるはずです。

否、現実にはすでにそうなっていることでしょう。

安定のない時代に仕事の安定を手に入れる方法

最終章です。ここでは仕事での「安定」を手に入れる方法を皆さんにあらためてお伝えします。

ただしこの記事では、すでに最初のあたりで、仕事に安定を求めることの無駄を指摘しています。「心の安定も含め、仕事の安定というものは結果論であり、幻である」と、そこではお伝えしたところです。

また、中盤においては、過去、安定した仕事人生がわれわれの社会には数多く見られていたということについて、「それは安定ではなく、成長だった」としています。また、そうした時代が終わったいま、存在しない安定を無理に探すことはかえって徒労であり、リスクであるということもお伝えしたところです。

その上で、いまから、皆さんが仕事の上での安定を手にするための一番の方法をお伝えしたいと思います。

それは、「あなたが成長し続けること」。これのみです。

その理由はこの記事の中で、2つ、すでに示されています。

ひとつは「やりがいのある仕事の方が出世や収入のチャンスにも恵まれる」に述べた、過去の時代にあった安定の正体です。繰り返しますが、そこでは、過去の時代にあった安定とは、実は成長のことであったとお伝えしました。すなわち逆に言えば、成長こそが、実は、安定そのものなのです。

前進し続ける自転車こそが倒れない自転車であるように、成長とその持続こそが、安定という状態を得るためのもっとも確実な方法です。そのことは社会や組織だけでなく、個人ひとりひとりに置き換えても、まったく同様にいえることです。

ですので、いわゆる安定した大企業の中で、その立場にすがり、リストラに怯えながら定年を待つことが安定なのではありません。(=心は不安定)

あるいは、そこで安心に浮かれた「茹でガエル」となって、身に迫る崖っぷちの存在に気づかずにいることも、同じく安定ではないのです。(=リスク管理の不在)

恵まれた環境の中にいるのならば、その環境を利用して大いにスキルを磨き、成長を重ね、万が一のハプニングが仮に組織や自らに降りかかっても、いつでもそこを飛び出せる…。

そんな用意がつねにできていることこそが、本当の意味での仕事人生の安定です。

浮かれた茹でガエルのまま仕事人生を終われる幸運な人も中にはいますが、それはクジ運に恵まれるようなものだと思っておいたほうが、リスクがないということです。

究極の安定志向

さらに、もうひとつのヒントです。この記事では、途中、リクルートという会社のことを採り上げ、その創業者の言葉を紹介しました。モデルはそこにあります。

実は、このリクルートという会社で働く人に、ほぼ100%安定就業の概念はありません。一時は「38歳定年制」といわれていたほどに、この会社では人材の流出が頻繁なのです。なので、この会社は、日本の産業界におけるおそらくはもっとも巨大な人材供給センターともなっているのです。ちなみに彼らはリストラされるのではありません。

多くの人が、大企業として恵まれた環境の整ったこの会社での仕事を30代、40代といったあたりで自ら「卒業」し、次の活躍の場を求め、新天地へ向けて歩み出すのです。

なぜ、このような風土が、リクルートでは成立しているのでしょうか

その答えはすでに示されています。この会社を卒業(実際に彼らはそう言います)していく人々というのは、会社や組織に頼ることによる安定ではなく、自身が培った安定こそをその手にしているのです。それは、資格とか免許といった、紙やかたちに示されたものでもありません。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変える」という、能動的な成長経験を積みかさねてきた彼らにあっては、多くは7、8年から10数年ほどで、「自分は今後も間違いなく成長し続けることができる」すなわち、「安定を手にしている」という、自らへの確信を得ることができているのです。

そうした、仕事人としての堅固な精神的地盤をもって、彼らは次のチャレンジの扉を開き、さらなる成長の持続を求めていく…と、いうのが、このことの隠れた本質です。

これは冒険ではありません。ある意味では究極の安定志向にもとづく、石橋を叩いて渡るように確実な前進です。

う~ん、なるほど。仕事で安定もやりがいも手に入れる方法、それってつまり、やりがいも安定も他者に求めない。自分に求める。自分の中に創り出すっていうことなんだね。でもなかなか大変そうだ!

そうですね。多くの人間にとって、一番変えにくく、動かしにくい人間が自分だったりもしますから。ですので、機会をつくることって大事なんです。否応なく自分が変わらざるをえなくなったり、動かざるをえなくなったりするための「機会」です。そして、そんな機会を創りやすくなっている幸福な時代こそが、インターネットとテクノロジーによってさまざまな個人の可能性が広がった、現在(いま)という時代だともいえるでしょう。